ボニー・レイット
3 『ギブ・イット・アップ/ボニー・レイット』
十九年前の七二年は、ロックにとって最も実り豊かな年だったと思う。スタイルの変遷を超えて、僕がいま聴いても素晴らしいと感じるアルバムには、七二年製のものがひときわ多い。女性ながらボトルネックギターを操るボニー・レイットが、この最高傑作を世に出したのも七二年だった。
この当時の米国ロックの良さは、それぞれが音楽的な地域性、その地方色を明らかにしてきた点にあったと思う。西海岸、東海岸、北部そして南部と、日本のファンの耳にも各特色は感知できた。本アルバムの理知的な簡素さも、優れて東海岸的土壌に根差している。
しかし彼女は東海岸の生まれではなく、六七年にロスからボストンに来た。父親はミュージカルのスター歌手だったが、十二歳でギターに狂った彼女が傾倒していったのは、白人女性には珍しくリアルなブルースだった。当時の彼女のアイドルといえば、フレッド・マクダウェル、ハウリン・ウルフ、シッピー・ウォーレスなどのブルースメン。この、一種学究的ともいえる姿勢に着目して彼女を迎えたのが、やはり六〇年代のフォーク/ブルース復興運動の気風を残すウッドストック一派だった。
その第二作目のこのアルバムでは、ブルースが現代の機知をまとうことで、逆にその普遍性を明瞭にしていた。プロデューサーは、のちにジャズのブルーノート・レーベルを復興させたマイケル・カスクーナ。彼はカバー曲目の選択にもセンスを示し、エリック・カズ、ジョエル・ゾス、クリス・スマイザーなど、東部でしか知られていない人の作品を彼女に歌わせた。それがシンガーとしての彼女の特質を際立たせ、同時にその曲自体をも有名にした。
もし、ボニー・レイットがずっとロスにいて、そこでデビューしたらどうだっただろう。その場合は明るく万人向きの、たぶんリンダ・ロンシュタットのような歌姫に仕立て上げられたと思う。実際、七〇年代中期以降、西で製作された彼女のアルバムはまさにそういう路線をとっている。
だがウッドストックのベアズビル・スタジオでは、その手の音楽は生産されたためしはない。そこでは常に、売りたい音楽よりやりたい音楽が作られたのだ。
しかし当時の日本のファンの多数派にとって、米国ロックといえばやはり西海岸のそれ。彼女が有名になったのも、西での作品によってだった。
